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自己規制が失わせる作品の「命」
自己規制が失わせる作品の「命」
http://www.ohmynews.co.jp/news/20080413/23398?cd
私が主宰する絵画教室で、一人の生徒の「作品」から感じるものを述べ合うことにした。
その生徒の作品は、どこと無くエロスが感じられ、技術的にはまだ未熟だが、私の好きな作品でもあった。
その絵を見て、私は「表現とはエロスも内在している」「この形は精子の様にも見え、また全体的印象として生命を表現していると感じる。面白い作品になると思う」と述べた。
更に、それを補足する意味で、こうも付け加えた。
「表現とは単に目の前の綺麗なものを写し取るのではなく、時代、人生から受けた、その作家なりの世界を表現するものである。また、一度、作家から離れたら作品は一人歩きし、さまざまな鑑賞者の批評が作品に向けられる。作家が思っていたものと違う批評も出てくる。表現者はそれを覚悟しなければならないし、それが糧にもなる」
その作品を描いた生徒は、困惑した表情で「私は形が美しいから描いたのです」「精子とかではなく、単に形です」と答えた。
「私が感じたことです。精子という言葉が気にかかるなら、訂正します。ただ、表現行為は、自分の動機だけで全てを表現しきれるか、私は疑問に思っています。潜在的な、言葉では表せない形や色が湧きあがってくるのが表現だと思うのです」と私は述べた。
その場はそれで終わったが、次の週、生徒の作品から、精子のような形は消えていた。
内面から出る「表現」
私はその作品を見て、「形を変更するのは作家の自由だが、他者から言われたから変えるのと、自己の表現として不必要だから変えるのでは、天と地ほどの違いがある。他者の目を気にするのは分かるが、自己の表現として必要ないと判断したのですか?」と尋ねた。生徒は「この形が精子と見られるのが、納得できないので変えました」と言った。
私の言葉遣いが不適切であったことを、再度謝ったが、なかなか理解してもらえなかった。
表現することは、本来自己の内面から出るもので、他者の目を気にして創るものではない。作品は、多くの鑑賞者の批評を受けることにより、作品として自立して行く。また、作家の思想信条や民族、または俗に言うプロ・アマという名刺の肩書きで観るものでもない。私は、時代の空気を突き破る勢いが表現者に求められていると思っている。それを成し遂げた作家の作品は、歴史という批評にさらされながらも生き残る。現に歴史に刻まれた作品は今も時代の中で輝いている。
すばらしい作品は歴史に刻まれていく(写真はイメージ、ロイター)
オーマイニュースで、「靖国」というドキュメント映画上映に関しての記事が掲載されていた。
まだ見てもいない映画作品に関して、話題が展開されていた。表現活動をする者として不思議な感があったが、どのような立ち位置にたった作品であろうとも、作品を見てから批評なりが展開されるべきであり、まして作品の発表の場の確保は作家生命をも左右する。
私の事例も含め、力を持つものは言動に気をつけなければ、表現する者や発表の場の自己規制によって作品の命を奪うことにつながることを身をもって知った。
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